窓からの景色、これが「普通」ということ
普通の豊かさってなんだろう。
その答えのようなものが、案外、開けた窓から聞こえる花火の音だったりする。
窓から見えた花火
写真は撮っていないけれど、今週末も花火が上がっているのが窓から見えた。左近山のどこかなのか、周辺の自治会なのか、正直よくわからない。けれどお祭りは今2街区でやっているはずだ。団地だけでバス停が6つある広さだと言えば、少しは伝わるだろうか。最寄り駅までの距離と、団地を端から端まで歩く距離は、だいたい同じか、いや団地内のほうが長いくらいだ。つまり団地の中だけで、30分くらい普通に歩ける。
昔はお盆休みに近い日だったような気もするが、今はもう記憶があいまいだ。それでも8月中旬までは、毎週家の窓から花火が見えると思う。
祭りのあとで
前回の祭りの結果もかいておきたい。ちょろちょろしがちな子もいるので、道路に出ずに広場や緑で目一杯動ける左近山は、正直助かる環境だ。今回は祭りのあとのごみ拾いへ、子供たちに同伴したのだが殆どゴミがなかった。
「来年できないかも」スピーチに効果があったのか、それとも管理費で賄われているクリーンメイトさんが頑張ってくださったのか、他にごみ拾い活動があったのかそれは不明。なんにせよ、来年も商店街のお祭りはできそうだと思った。
でも、ここでもう少し詳しく言うと、それはわかりやすく落ちていたゴミの話だ。子供たちは「去年はここが酷かったんだ」と、大人が中にいけない狭い植え込みに潜っていき大きなゴミ袋1つ分くらいの量で今年もゴミを探し出してくれた。想像ではあるが確実に、このようなゴミはぽろっとうっかり落としたものではなく、ポイ捨てしてない体で低木にねじ込んで隠していったものであろう。つまり、ばれなきゃいいさという人間のもっとも醜悪なところを子供たちは見逃さないのだ。神の目をもつゴミ探検隊はそのような発掘物があるほど楽しそうだが、住民でもある私は敷地内でそんなことをされるのはだいぶ悲しい。
それと、スピーチでは「周りにも声がけして」と言っていたが、実は私はゴミを置き去りにするのを目撃した若く美しいカップルに声をかけなかった。だってせっかくのデートに野暮じゃない?そもそも座っていたところに「2つきれいに並べて置いていった」から、それも記念なんでしょう。ただそんなこと誰に言われなくても「ゴミは捨てに行こう」って爽やかにデートを運ぶのが選ぶべき男だよ。まあそれは私の基準だけどね(笑)
窓の外の夏
色々なことは起こっているだろうが共有地が広いここ。以前は小学校が3つあったほどなので全部知る由もない。しかしよく見たらみえることはある。
ここでは確実に、夏に花火を窓から眺められる。エアコンもいいけれど、窓を開けて自然の風を通して暮らせるのもいい。窓の外には虫の声、近く遠くの鳥のさえずり。
最も近くもうちはスズメの巣があって、かなり賑やかだ。そして虫も多くいる。ミンミンゼミも今週鳴きだした。蚊は近年夏が暑すぎて緑がおおいわりにはそれほどいない。正しくは16時頃以外はだけども。おそらく左近山はそれなりに植栽管理がされているからと思う。仕事の送迎添乗で近隣の住宅地にも行く。この辺りは左近山に限らず樹木が多いところが結構ある。そこに長いと15分以上外に立っていての比較だ。
すずめの卵らしきが家の前に落ちていた
「普通の生活」を、選び直す
祭りでただ人通りが増えても、左近山が昔よりもっと良くなるってことでもないのかも。
みんな一生懸命はたらいてきた。今はもうそうでなくても、普通の生活は権利として、普通に求めていいはずだ。左近山では、これが普通なのだから。
これとは言ったが、その内容はたぶん入居の年代でちがう。
もともとここには、住める「箱」と植えた草木しかなかった。そこに住民になった人たちが、自治会という形で少しずつ暮らしを作ってきた。50年も積み重なると関わる人と中身が変わっていくけれど、それでも「祭り」は続いている。
とはいえ何が起ころうとしてるかソロな私のところへ伝わってくるルートがこれまでなく、いつも何のことやらで、良くも悪くも箱代を払っているだけの状態だ。それでも便利に住める箱ではあるが、約50年前の父の実績や住民がその家で普通に各種先生などしていた事実を考えると、自分が動けば実現するのが左近山である。おのおのできる活動をするのもよいのではと思う。
そして週5から週3へ変えてみるテスト
数年前まで週5で働いてきたが、ここ2年は年金生活のリハーサルをしている。
40代と50代では、働くことのハードルの高さがかなり違う。そもそも体調が不安定になると、何をしたって大変だし、信用もされない。私はどんなにやりたい仕事をしていても、睡眠不足になると毎度倒れてしまう。そこを最大限に考慮して、近所で支援員の週3パートで働いている。子供たちと過ごす以外の日は、主に私のキャリアの元になっているデザインについて学び直しをしている。
そうして強制的に「収入が超少ない生活」——正直、生活保護以下——に突入してみているが、不自由があるかというと、そこまでない。 これまで休みがなくても、仕事と関係が有る無しにも関係なく、衝動で学びたいことは学びたいときに学んできたけれど、やっぱり量がこなせるし、それで倒れる可能性はだいぶ減った。
不自由がない理由
それでも本番さながらなリハはまだ行っていない。前提として、この収入から家賃支払いは除いている。まず今は生活を小さくする練習期間なのでそうしている。
なにしろ働きたくない人や理由があって働けないのなら、支出を下げて必要な分だけ稼げばまあ生きられるのだ。 必要と思う分についてはなんとなく感覚がついてきた。
でも一番の支出は家賃という高額サブスク(元々UR賃貸は更新料がない)の固定費のため、これを下げることが一番いいわけだ。 本当はパートナーと同居すると大幅コストダウンと思うけれど、お互いに実家と近居が大事なので当分それはない。私がとても長生きすると、ここの家賃で合計5000万円以上支払う計算にもなる。
だけど、左近山なら車は乗らないので手放してしまったが日常の買い物には困らないし、緑と空間がいっぱいで、ゆったり暮らせる。人により何を住まいに求めるかは違うが、私は視界が広々していることが一番心身のバランスが保てていいと思っている。
効率を極めすぎても心身削られてろくなことが無いし、少しずつ小さくしてこれまでの普通で生きている。
古い建物、でも古びていない
当分は住むであろうと決心したので、2年前に内装の補修をしてもらった。居住年数が長いと申請すれば無料で畳とふすま、壁紙を交換(や修繕)をしてもらえる。水回り設備の交換もうちは何度かしている。賃貸は自分の財産ではないが、自分でお金や段取りを気を付けなくてもメンテは実行されるので特に気楽に住める。築50年以上の古い建物だけれど、外装もURが定期的にメンテナンスをしていて、数年前にされた外装塗装の外観デザインはこれまでになくここに住んでいない方々からもとても評判がいい。
私も全体的には配色で渋く明るく一辺倒でもなくおしゃれになり好きだが、棟番号の文字が細くて字間がぎゅっと狭く、目が悪い私には結構見にくい。ただでさえ同じような箱なので、インフォグラフィックとして配慮に欠けているそこだけはいまいちと思うけれど。
古くても外観に満足がいくと、次に気になるのは「陽当りと風通しがすごく良さそうだ」ということで、加えて私にここでの生活はどんなものかと聞いてくる人が多い。
賃貸の場合は内装設備をリニューアルしつつ、昭和レトロ感も維持している。変えられない箇所のきれいさは前の住人の暮らしぶりによるし、どこまで家賃が上がるリニューアルをしているのかわからないが、流動的なのは主に4階5階で、1階は高齢者向け改装になっている。また分譲のほうも売りに出されているのは4階5階が殆どの印象だが、こちらは和室のままのを安く買ってまるっと好きな内装へ自分で変えることも不可能ではないし、最初とまるで違う今どきなリフォーム済み物件も売られている。それぞれにそれが好きな人合いそうな人に適宜おすすめしている。
当たり前は、当たり前じゃない
交通アクセスの良さと、陽当りと風通し、ゆったりした緑。これを全部手に入れるのは、なかなか大変なことだ。戸建てを買えば全て解決というわけでもないし、この団地に住んでもだんだん失われるかもしれない。生まれた時からの当たり前は、実は当たり前ではないようである。
充実した人生とは、なんだろうか。当たり前のことを普通と呼ぶが、普通も日々の自分の選択の積み重ねによってもたらされる。なにが持続的な幸福感につながるかは、それぞれの価値観で行動は変わるけど、どんな行動もそれをする心理としては安心できるか不安がないかに収束する。それを考えると、社会を変えるより自分が不安なく変わるのが一番早いし簡単かなと思う。